台湾少年工のこと

鷹揚の会: 平成22年5月例会
開催日: 2010年5月21日
レポーター: 小川眞一

●台湾少年工のこと
昭和18年5月から19年迄8回に亘り、大和市高座(たかくら)海軍工廠を始め、全国の軍需工場に派遣され、航空機製造に従事した。
合計8419名は、12~18歳迄のいたいけな少年で、その約8割が12、13歳だった。
勤務と共に学校同様の授業が行われ、小学校卒の者には5年で工業学校、中学卒の者には3年で高等工業学校の卒業資格が取得出来るとされたため、多くの台湾少年が志願し、学業心身共に優秀な生徒が選抜された。
戦局の悪化に伴い授業は中止となり、3カ月の実習、軍事教練を行う基礎訓練も短縮され、職場の第一線に従事する。
昼夜兼行で懸命に働き、戦闘機「雷電」「ゼロ戦」「紫電」など日本海軍の主力機を手がけた。
危険な労働、劣悪な食糧情況と厳寒の中、病気や事故で亡くった者も少なくない。
昭和19年12月18日、三菱航空機名古屋製作所がB29の大爆撃を受けた際は25名が防空壕の中で爆死、また、昭和20年7月30日にも厚木航空隊を襲った米機により、6名が爆死するなど、悲惨な出来事も起きた。
戦後、異国籍者となって台湾に帰った。
帰国後、厳しい環境下で鍛えた規律と精神力、習得した技術力を生かして、郷土の復興や台湾の工業化ほかの分野で活躍貢献した。
帰国後も親睦と交友の台日交流は続いている。

●同人誌「流星」より「ゼロからの出発」小川三郎
  • 大正9年生まれ、当時海軍技術中尉
  • 昭和18年横須賀航空技術廠でY20(銀河)の試作第1号胴体製作担当、空C廠建設計画委員会へ転属、艦上爆撃機の生産のための人員募集、教育指導を任命。
    内地人材不足のため台湾から少年工を募集し、選考し、輸送指揮官として船で輸送、工場教育して航空戦力とする任務を命ぜられる。(沢井大佐・・・後に山本五十六長官の部下)
  • 木更津(1空廠)霞ヶ浦(1空廠)など見学し新入行員教育方法を研究
  • 海軍高座工廠建設完成、厚木航空隊からゼロ戦訓練
  • 昭和18年、台湾少年工輸送第2陣輸送指揮官を命ぜられる、6月22日台北飛行場到着。
    台湾での募集、収容、輸送の世話は高雄第61空廠がしてくれた。
    小学校卒業予定者を面接、身体検査、採用する。(学校成績1番2番の上位者が殆ど)
    集合地は台北、台中、嘉義、ほ里など、内定者は既に全員日本名だった。(台湾名併記)
    本籍は福建省が多かった。1,000名を採用決定
  • 輸送準備中赤痢発生、(コレラも流行中)、隔離患者数10人、軍医長が菌の発見者で権威者だった。
    家鴨の生卵が原因、50%死亡率の赤痢であったが全員回復。衰弱者は親元に帰す。
    戦争に出かけるわけではないが親元を離れる少年と見送る親に涙、優秀な成績で卒業した中学生も含まれた。
    現地では上級学校少なく、工業少ないため希望者が多かった。
  • 5000トンクラスの専用純客船で輸送。
    済州島沖から関門海峡に入り大阪港で下船、特別軍用列車で高座廠に到着した。
    第3次輸送部隊は別の指揮官が行いその間甲府の女学校にも出かけ部員、職員、事務員などの募集も行った。
    徴用があったため一般募集は少なく集まりにくかった。
    紡糸工場にも出かけた。(朝6時から夜10時までの勤務。月2回の休日の女工哀史、給料年100円)
    第4次輸送を担当する。
    台湾到着の翌日軍司令部に報告時、空襲を受ける。(日本が遅れていた貴重な電探(レーダー)があったが不良)
    台南の軍施設がP38に襲われたこと判明。
    選考試験では中学卒業生のみであった。(血書を書いて志願しえ来た者、テニスのチャンピオンもいた。エリートの卵が多かった。この機会に技術を覚えようという空気もあった。)
    基隆港で輸送船が潜水艦に襲われているのを見た。(戦局悪化)
    高雄から乗船、引揚者と共に200人を輸送、護衛の軍艦なし。船内で正月を迎える。(味噌汁のお餅のみ)
    佐世保到着、今回は専用列車ではなく各停列車で2昼夜かけて高座廠到着。
    新入生の実習(機体分解など)、林間の地、慰安会「台湾楽しや、よいところ・・・」の歌が多かった。
    東京見物させる。高座廠にて東京大相撲の興行を行い見学、生産機種「雷電」に決定(軍民一体の生産・・・主翼:日本建鉄/胴体・総組立/高座廠)CKD方式から始める。
    三菱からの部品供給あったが、組み立ては独力完成。
    航空本部の技術部員による領収検査受ける(空技廠で銀河の試作を一緒にした人だった)、不具合箇所判明したが、第1号機は離着陸訓練用に使用し試験飛行成功した、一同感激。
    第5次輸送受け入れ。宇品まで迎えに行く。
    広島湾で整備中の戦艦「大和」を見る。
    1,000名無事到着。戦局悪化。教育終了間際の生徒が数千人高座廠にいた。
    中島飛行機(株)に少年工の応援派遣を企画し200名派遣する。
    中島飛行機小泉工場は当時最新鋭で日本一の生産(零戦500機/月、銀河200機/月生産、チェーンコンベアによるタクト前進方式)
    1ヶ月後更に1,000名応援派遣する。(監督官からマリアナ海戦で撃墜され全滅した話を聞く)
    三菱名古屋大江工場にも多数応援派遣された。
    戦局悪化サイパン島陥落、第2代目の釜田廠長が九州航空隊司令として転出、(アメリカ原子爆弾計画の噂を聞く1944年8月)
    B29の来襲予想を知らされる。「雷電」の生産進捗する。
    8月1日付で横須賀鎮守府出仕、予備役編入となる。海軍を去る。
    三菱重工業名古屋大江工場に勤務。応援派遣の高座廠のメンバー200名と再会す。
    12月三菱はB29の爆撃を受けたが高座廠からの応援派遣はいなかった。
    戦後数度高座廠の跡を見に出かけた。跡形なく東名高速大和トンネルのみが記憶を呼び起こす。
●台湾少年工たちは徴用で日本に連れて行かれたのではない。
志願募集した。志願して厳しい選抜試験に合格して、自ら望んで日本に行ったという誇りを持っている。
一種の海外留学生である。戦後帰国してから全土に広がった人的ネットワークを活かし郷土の復興に貢献した。
法律顧問、医師、実業家など多い。
日本で生死を共にしたという信頼と自ら苦難を克服したという自信が糧となり、「高座帰り」として一目置かれている。(「台湾少年工と第2の故郷」より)
●”日本人も中国人も忘れたる仁義礼智信台湾にあり”台湾万葉集:呉建堂