蔡焜燦(著) 「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)-日本人よ胸をはりなさい」

鷹揚の会: 平成22年4月例会
開催日: 2010年4月30日
レポーター: 石川俊文


著者の略歴
1927年台湾生まれ。
彰化商業学校卒。
1945年岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊入隊。
戦後体育教師、のちに実業家。
終戦時は18歳。

<日本による領有以前の台湾略史>
14c以降漢人・日本人の商人・海賊の活動拠点。朱印船の中継地。秀吉が「高山国王」(高雄辺りの原住民)に親書。
1624年 オランダ入植。安平(台南)に要塞(ゼーランジャ城)建設。東インド会社による植民地経営。→37年間続く。

1629年 スペイン淡水河口に要塞(サントドミンゴ城)建設。→16年でオランダにより駆逐される。

1661年 大陸で滅清復明の戦いに敗れた鄭成功がオランダを破り鄭氏政権樹立。プロビデンジャ城を承天府として施政。→31年で清軍に滅ぼされる。

1684年 福建省の行政機関として台湾府開設。→210年間の清領時代。「三禁の制」許可制による渡台制限、家族同伴の渡台禁止、広東人の渡台禁止→密航多く、密航者の男ばかりの移民社会。結果、原住民との混血進む。平埔族(平地原住民)の漢人への同化。移民は出身地ごとに社会を形成し、移民同士の「分類械闘」。清の貪官汚吏にたいする反乱。「三年小乱、五年大乱」

1874年 三年前のパイワン族による漂流沖縄人殺害を口実に台湾出兵。→清国に賠償金を払わせて決着。沖縄の帰属が決着。→この後、台湾の戦略的重要性に気付いた清による近代化。移民の解禁、台湾省に格上げ、初代台湾巡撫劉銘伝による洋務運動。基隆―台北鉄道敷設、電信、海防の近代化、茶の輸出振興。中国で最も近代化された省に。とはいえ、農民は飢えれば土匪となり群れを成して城内に強奪に行く(許文龍の母の話)。

<1章> 司馬遼太郎のこと。略

<2章~4章>
下関条約により日本への台湾割譲が決定後、北白川宮率いる近衛師団が台湾接収。
台湾巡撫唐景崧らの台湾民主国も大した抵抗も出来ず、逆に台北城内の治安回復を求める商人辜顕栄らから日本軍の早期入城を要請される。

父親世代の民族意識(16歳まで清国人)は著者とかなり違う。
日本による領台後、2年間の国籍選択の猶予が与えられた時、福建省の伯父は大陸に戻った筆者の父を台湾に追い返す。
「せっかく日本人になれる機会を掴んだのだから・・」 1935年に施政40周年に招かれた陳儀の言葉「あなた方台湾人は日本人になれて幸せですよ」は当時の年配者の神経を逆撫でした。
日中戦争中、皇民報告会の活動に熱心だった父を誇りに思う。
しかし父の持ち物から馮玉祥の蒋介石宛書簡の写しが見つかる。
・・・日本の支配により中国人意識が強まっている。一方、戦後の為政者の郷土愛は薄くインフラ建設は遅れた住民もカナダなどへの移住を願望。米国に行って出産し子どもに米国籍を持たせる。

日本の統治方針の主流は「内地延長主義」で、「植民地」という話は聞いた事がなかった。
・・・実際は「内地延長」ではなく総督府に立法権限。後藤新平が立案した「台湾統治救急策」はイギリス型特別統治を提唱。物理的な文明化で民心をとらえるべき。伊藤博文も特別統治を採択。一方、平等主義の「内地延長」論も根強かった。最後まで国政選挙権はなかった(内地在住者は別)。

3代総督 乃木希典 「台湾施政も誠に苦々しきことばかり。人民の謀反も無理からぬこと。乞食が馬を貰いたるごとく、飼う事も出来ず、乗ることも出来ず。」 内地人の給与は外地手当てという名目の給与差別があった。ただ、それ以上のことを日本人は台湾のためにやってくれた。
・・・大正11年の台北以内賃金格差 日本人/台湾人(単位:円) 大工3.5/1.8 石工4.0/2.0 木挽3.0/1.45 活版植字2.2/1.0 女中(月)8.0/4.0

1898年児玉源太郎が4代総督に就任。後藤新平が民生局長に。
上下水道の整備・全島各地に公医を配置・病院・予防消毒事業団設立→伝染病の克服

アヘン専売化による漸禁政策
<後藤新平について補足>

  • 後藤新平は官軍に占領された奥州水沢藩の小姓頭の家の生まれ。蘭学者高野長英は大伯父に当たる。新政府要人に見出され医学を修め、西南戦争、日清戦争の凱旋兵の防疫事業に従事。日清戦争後は臨時陸軍検疫部の部長だった児玉との共同事業。しかしいずれの戦後にもコレラが大流行。日清戦争後は1年で4万人以上が死亡。
  • 台湾施政方針を問われ「生物学の原則でやる」=台湾の風習・習慣に即して→旧慣調査実施
  • 土匪対策に台湾人の自治組織に武器引渡し(保甲制)や公共事業で懐柔
  • 台北大改造 「公衆衛生」と「市域拡大」下水道(東京より先)・城壁の撤去と道路建設(児玉「門は残せ」)城壁の石を使って台北駅・台湾銀行・台北監獄舎・総督官邸建設、「台北家屋建築規則」亭仔脚のある街路
  • 日本から百人以上の医師を呼んで公共医療制度。予防接種義務化。台北医学校創設。
  • 土地調査事業 所有権の整理。正確な三角測量による地図作成(近代化の基礎データ)課税面積倍増。一方所有を証明出来ない土地を大量に収用。精糖産業用のサトウキビ畑に転用。
  • アヘンの漸禁策は財政目的が優先されたとの批判も強い。明治30年(1897)「台湾阿片令」で専売制開始後、吸引者は人口の1.9%から明治33年6%に一旦増えた後、大正15年に1%、昭和15年に0.1%に減少。

八田与一技師による烏山頭ダムと嘉南大圳建設事業
八田技師の銅像は戦争末期の金属供出の際、住民によって隠された。1981年漸く表に出され毎年命日に嘉南農田水利会によって慰霊祭が行われている。

1918年(大正7)7代総督 明石元二郎
台湾教育令によって台北師範学校・台南師範学校・台北工業学校・台中商業学校・農林専門学校などを設立。
8代田健二郎 新教育令により台湾人と日本人が机を並べることに。
1945年の就学率は92%(インドネシアの就学率は3%)
日本の台湾統治は欧米諸国の植民地とは根本的に違っていた。

  • 台湾人児童就学率 大正12年 男43.6%/女11.8% 昭和13年64.5%/34.1% 昭和18年95%/90.0%
  • 日本語普及率 大正4年1.63% 昭和12年 37.86% 昭和19年71%
  • 新教育令で中等学校以上の日本人と台湾人の系統を統一。

明石総督は福岡で病死したが遺言により台北の日本人墓地に埋葬された。
戦後中国兵や難民が墓地にバラックを建てスラム化。
陳水扁市長時代に公園化が決まり1997年掘り起こされ三芝郷に改葬された。

1995年日本から関係者を招き士林国民学校の百周年記念祝賀会。
台湾の学校では卒業式で「仰げば尊し」が歌い継がれている。

公学校卒業後彰化商業学校を受験。
倍率18倍だが、15%が内地人枠。
出来の悪い内地人からチャンコロとばかにされ、台湾人というアイデンティティーを認識。
・・・公学校は台湾人のための初級学校。小学校は日本人専用だったが、新教育令以降は日本語常用者向けとなり一部台湾人も小学校に入学。小学校に通い自分が台湾人と知らなかった李遠哲。一方、中学校で差別された経験はよく聞く。

1935年台湾中北部大地震の際、入江侍従長が訪台し一軒ずつ被災者に昭和天皇からの見舞金を下賜して廻ったことから皇室に対する親近感が芽生える。
台湾の年配者に共通する皇室への親近感。
母校の清水公学校で唱えた教育勅語を人の道として信ずる。
高雄の東方工商専科学校では教育勅語を掲げている。
陸軍将校が講話で話した「犠牲的精神」に強い印象。=公の精神
・・・日中戦争開始(1937年)以降皇民化運動開始。学校での母語使用制限。伝統宗教行事・演劇・音楽の制限。神社参拝。宮城遥拝。1943年義務教育化。
・・・台湾の学校では今も道徳教育は重視されている(三字経)。

開戦後緒戦の大勝利に台湾に民衆も酔いしれた。
1942年陸軍特別志願兵制度により台湾人にも漸く軍人の門戸が開かれる。
千名の募集に40万もの志願。著者も1943年少年兵募集に志願し少年航空兵に合格。
祖国を守る使命感で日本人であることを一層認識した。

日本に徴用されたといわれる「台湾少年工」も実態は働きながら勉強し5年後には甲種中等学校の卒業資格が与えられるという魅力ある制度に応募したのが実情。

創氏改名も強制ではなくむしろ許可制だった。
奈良教育隊に入隊した台湾人で改名したものはわずかで改名せずとも不都合はなかった。
一方朝鮮人は全員改名していた。

また、公学校5年生の頃台湾人がまだ軍人になれなかった時期に遅れて日本領になった朝鮮人に少佐となっていた英雄がいることに疑問(不満)を感ずる。

「高砂義勇隊」の南方のジャングルでの戦いにおける活躍。
「高砂族と日本時代に呼ばれてきた台湾山地人の美質は黒潮が洗っている鹿児島県や高知県の明治までの美質に似ているのではないか。
この黒潮の気質というべきものは、男はおとこらしく、戦いに臨んでは剽悍で、生死に淡白である、ということである」(台湾紀行)
烏来タイヤル族は高砂義勇隊の英雄碑を建立し本間中将による遺詠と高砂義勇隊に捧げられた無数の日章旗で顕彰している。
・・・1930年の霧社事件。理蕃事業の模範地区だった霧社のタイヤル族が学校の運動会場を襲撃、日本人のみを男女、子供100名余りを殺害。軍隊を動員して報復的鎮圧。

終戦時、悔しさと無念で涙する。
朝鮮人が独立を叫ぶ傍らで台湾人同士のひそひそ話「俺たちはどうなるんだ」「中国へ帰るみたいだ」「それなら俺たちも一等国の国民じゃないか」
・・・朝鮮人と台湾人の民族意識の差

駆逐艦夏月で台湾に帰還、波止場では鉄道が台湾人の手によって運行され、しかもアナウンスも号令も全てを台湾語でやっているではないか・・純白の制服の軍楽隊が金ぴかの金管楽器を抱えて勇壮な行進曲を演奏するのを見て「祖国だ!」といって泣いた。
その直後、軍楽隊の後ろに続くボロボロの服に唐傘を背負ってわらじを履き天秤棒に竹篭を下げ汚いタオルを腰にぶら下げた中国兵を見て、祖国たるべき中華民国に託したすべてが心の中で音を立てて崩れていった。

半年前、台湾民衆は”祖国復帰”を額面どおりに受け取った。
「還我河山」「台湾光復」という標語に酔い、日本時代よりも幸福になれることを歓迎し、祖国の軍隊を待ちわびた。
45年10月17日基隆に上陸した1万2千名の中華民国軍先遣隊の行軍を見た沿道の民衆は青天白日旗を打ち振るのをやめ絶句した。
・・・台湾人の共通体験。日本時代、学校で生活習慣や礼節を厳しく躾け(痰を吐かない。手ばなをかまない。時間をまもる。)。警官・役所による監視と規律(毎日掃除する習慣。遵法精神の涵養。夜不閉戸。)中国人とは生活感覚が違っていた。

中華民国支配下でかつての日本語の使用が禁止され、北京語が強要されたため台湾人が公職につくことは困難だった。
一夜にして公用語が北京語に代わったことは、市民の混乱を招いただけでなく台湾社会の発展にとって大きな損失になった。
・・・北京語がわからない老人と台湾語ができない孫。最近の台湾語復権。

故郷では教育界での収賄、微罪で逮捕し保釈金を稼ぐ警察を目の当たりにする。
日本時代の警察官は「大人」と呼ばれ、地元の人から食材を受け取ることはあっても賄賂を受け取ることはなかった。
教師の収賄もなかった。
台湾社会はそれまでの秩序も道徳もなにもかもが大陸からやってきた中国人に破壊され私利私欲の渦巻く「倫理不在の社会」となった。

2.28事件
専売制となった煙草を「密売」した露天商の老婆を官憲と専売局役人が銃床で殴りつけたのを見て抗議し集まった民衆に官憲が発砲し1人が死亡。
きっかけに日頃の民衆の外省人への怒りが爆発。
翌日(1947年2月28日)長官公署(旧総督府)前で抗議の群集がシュプレヒコールを挙げると憲兵隊は機銃掃射で応じ、十数名の死傷者を出した。
本省人の抗議の暴動と外省人襲撃は全島に広がった。襲撃は罪のない外省人にも及んだ。
その際日本語の問いかけに答えられるかで判別された。
恐れをなした台湾省行政長官陳儀は一旦懐柔策を約束するが、やがて大陸から援軍が到着すると機関銃乱射による無差別殺戮で台湾人への報復を開始した。
さらに政府は「清郷工作」を断行。その後40年間続く白色テロ始まる。
医師・弁護士・学者・教師などが知識人が逮捕処刑される。

著者自身も教え子に対して「心に太陽を持て」と書いたのを「心に日章旗を持て」と教えていると密告される体験をもつ。

1949年12月中華民国政府は内戦に破れ台湾に移転し台北を臨時首都(首都は南京のまま)に定める。
1948年には「戒厳令」と「動員戡乱時期臨時条款」を発布し総統に憲法に優先する権限を付与。
大陸反功が実現するまで立法議員の非改選を決定。
蒋介石は台湾を私物化し台湾人を弾圧し対外的には日本と連携を模索しながら国内では徹底した反日教育を推し進めた。→許文龍の「台湾の歴史」

1975年蒋介石死去 蒋経国が総統に。
1987戒厳令解除。蒋経国「ここがやがてあなた達のものになる。」と発言。あなたたちは本省人のこと。
1988年蒋経国死去により副総統の李登輝が総統就任。
李登輝による民主化により、民進党など野党の活動の自由化。
1996年初めての直接総統選挙実施。2000年の総統選では民進党の陳水扁が当選。

国民党の反日教育が改められ、日本統治時代を正当に評価する歴史教育「認識台湾」

台湾人は中国人か
台湾人の祖先は「羅漢脚仔」ローハンカアー。
原住民と通婚し混血化。「有唐山公、無唐山媽」。
台湾人は血統的には南方人種との研究結果もある。
さらに50年の日本統治時代の教育によって思考過程や価値観までも大陸の漢人とは異質な民族。

現在東南アジアではびこる汚職、贈収賄は地元の習性ではなく華僑によって持ち込まれた悪習ではないか。

中国人と台湾人の決定的な違いは「公」の観念の有無にある。
台湾人は日本の教育によって公の観念を獲得した。
司馬遼太郎「暦朝の中国皇帝は私で、公であったことがない。
その股肱の官僚もまた私で、たとえば地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な営みだった。・・」

親日家 李登輝・許文龍、映画「多桑」に描かれた日本語世代
・・・朝はごはんと味噌汁でないとだめという中華料理の先生の夫、私は漢民族と思っていませんと言う任さんのご母堂、直立して軍歌を歌う許さん、日本人が来ると涙をながす宝石屋のご隠居、夫婦間では日本語で会話する李登輝

2009年4月、財団法人交流協会が実施した初の台湾人対象の対日意識世論調査では、「日本に親しみを感じる」が69%で、「親しみを感じない」の12%を大きく上回った。「最も好きな国」としても38%が日本を挙げ、2位のアメリカ(5%)、中国・大陸(2%)を大きく上回った[10]。民進党系のシンクタンク台湾智庫が2008年に行った世論調査では、「中国、米国、日本、韓国の4カ国の中で、全体的にいってあなたがどこ国に最も好感を持っているか」という設問では、日本が最多の40.2%で、米国の25.7%を大幅に上回った。韓国は5.4%、中国は5.1%だった。これを年齢層別に見ると、20代では親日傾向が顕著で、日本が49.8%とあらゆる年齢層で最も高い。米国は27.8%で、韓国は5.5%、中国は3.8%だった。民進党支持層では、日本が顕著に多く54.6%%、米国が26.1%%、国民党支持層では接近しているが、日本のほうが多く37.3%、米国が30.7%だった。台連支持層では日本が68.4%と圧倒的となっている。また、『ワシントンポスト』は2005年2月18付アンソニー・ファイオラ記者の記事「Japan to Join U.S. Policy on Taiwan」で「台湾は、1895年から1945年まで日本の占領下にあったにもかかわらず、アジアにおいて稀有な親日感情を抱き続けている。台湾人の年輩者らは未だに日本語と日本文化に大変な共感を示す」と報道した[16]。馬英九総統の外交政策、対日戦略のブレーンで中華民国総統府国家安全会議諮問委員を務める楊永明台湾大学教授は、「一般的に言って、日台間では相互に友好感情が存在するという基本認識がある。台湾はおそらく世界で最も親日的な社会であり、日本でも台湾に対する好感が広範に存在するのである」と指摘している[17]。同じく中華民国総統府国家安全会議諮問委員(閣僚級、日台関係担当)を務める李嘉進は「日台は『感情の関係』だ。普通の外交関係は国益が基本だが、日台は特別。お互いの好感度が抜群に高い。戦前からの歴史が育てた深い感情が出発点となっている」と指摘している[18]。(Wikipedia)

参考文献
殷允芃編「台湾の歴史  日台交渉の三百年」
喜安幸夫「台湾の歴史」
山岡淳一郎「後藤新平 日本の羅針盤となった男」
台湾国民中学歴史教科書 「台湾を知る」
許文龍「台湾の歴史」