老台北と語る会

開催日: 平成22年8月20日
場所: 台北市 國王大飯店
記: 小川眞一

台湾側
蔡焜燦、(作家、李登輝民主協会理事長)
李雪峰 (台日交流高座会会長)
謝清松 (高座会秘書長)

鷹揚の会 訪台参加メンバー
代表:松本輝夫
副代表:得丸公明
メンバー(50音順)
石川俊文
岩村立郎
小川眞一
神山典士
袖川裕美
辻本裕子
中内幸男
日比谷久代
安江渡
安江和子
安江園子

(松本) 鈴木孝夫サイン入り著作「日本人はなぜ日本を愛せないのか」「日本語教のすすめ」「三種を謹呈。
本を読んで、両先生方が日本と日本語を愛すること、また天皇に対する敬愛の念を持たれているとの認識をもって宮内庁に出かけ準備した土産を紹介。文箱、風呂敷を謹呈。
明治神宮のお札を謹呈。

(蔡) 2重橋のバッグ写真を見て「お母さん東京だよ」台湾では「お父さん東京だよ」という映画があったよ。東御苑には入れますよ。もったいないです。ありがとう。私は東京行くと真っ先に行くのがこの明治神宮です。その後靖国にいきます。私は口はばったいけど靖国の崇敬終身会員です。皆さんに終身会員の方おられますか?自分で自分の手をたたきなさい。
相当古いです。先々代の(南部)宮司と飲み友達です。2月11日に台湾靖国に参拝にこられた。李会長が宮司をご案内した。私がアシスタントでした。台湾靖国には二万八千の位牌がある。李登輝総統のお兄さんの位牌を持ち出して一緒に拝んだ。岩下武則海軍機関上等兵、昭和20年2月25日レイテ戦死。今世界のどこにこれをやっている国がありますか?
今日は、皆さんを叱りつけるつもりで来ました。われわれは、日本人として20%の発言権があります。私は83歳ですが19歳まで日本人でした。83分の19は日本人です。ここ数日間はカッカしています。今の総理大臣は何ですか?ダラカン、クズカン、ありゃアカン。ボウカン。知らない女性を平気でゴウカン(ごめんなさい)。日韓併合の歴史を勉強もしないで100年目に誤っている。これはおかしいことですよ。日清戦争の講和条約の第1条は皆さんご存知ですか?朝鮮の独立をさせることが第1条です。その次にやっと台湾とそれに付属する諸島を永久割譲。これは、100年以上前の明治28年のあの頃の世界的習慣で、一つの国が一つの国が戦争をする。負けた国が戦争賠償金を払う。領土を割譲する。これ一つの習慣ですよ。それで明治28年4月17日下関で伊藤博文が清という王朝(国ではない)の全権大使李鴻章と台湾の永久割譲のサインをしている。その時に日本になった。
その後5月ごろに北白川宮義久親王様が旅順から直接、台湾の人が反抗するから征伐に来た。鹿児島出身の樺山資紀海軍大将が初代総督で6月17日に日本になった。2年間で国籍を日本にするかどうか選びなさいとせよ。帰りたい人は清に帰れ。帰りたくない人は2年後から日本人だよとした。だから我々は生まれながらの日本人です。だから私はまだ20%は日本人です。まだ20%以上の日本人としての発言権がありますから、今日は日本人を叱りつけようと思ってきたんですが、素晴らしいご褒美ですよ。

(松本) そう思って私たちが一緒に勉強している鈴木先生を紹介したいとやって来ました。この鈴先生は昭和元年生まれです。皆さんと同じぐらいの年です。

(李) 大正15年は7日しかありません。私と一緒です。

(松本) 11月生まれだから大正15年ですね。蔡先生が1つ若い?

(蔡) 11月25日までは大正です。

(松本) この人は蔡先生が言われていることと同じことを書いています。

(蔡) 藤原元彦さんもそうですね。憚りながら阿川弘之先生もびっくりしておられますが、「美しい日本語を守る会」という勉強会が台湾にあります。世界のどこにありますか。阿川先生曰く、「なんで、日本ではなく外国の人が研究して守ってくれているのか?」本当にその会があって今「友愛会」といっていますがその会が月に一回あります。
(松本) 鈴木先生からもこの本で叱られています。日本人は日本を愛せないのか・

(蔡) 私は、いつも日本人は胸を張れと言っています。
(自作の本を出して) 皆さんにこれを差し上げます。今は3部しか持ってませんが後でお送りします。(船便で)・・・「台湾歌壇」と「総合教育読本」
台湾万葉集は台湾人の万葉集です。この7月に新しく出した本がこれです。丁度150集になるところです。台湾歌壇と名前をつけかえてから13集ですけど、皆さん、台湾人がこうやって敷島の道を読んでいます。
例えば「靖国のみよしろに入らんと誓いしは、みそいとし・・・」
私は65年前に陸軍生徒であったから靖国に行くんだとして8月の勉強会の歌に出しました。
それから、これは清水小学校の総合教育読本です。それから当時は台湾人、山地人(?)の小学校はなかった。内地人の小学校です。昭和10年に日本全国になかった日本全国、樺太から南洋移民統治島(?)から、台湾から朝鮮を含めてなかった構内有線放送という設備が人口3万人にも満たない私の出身校にありました。その時のレコード400枚以上のレコードを文字に残したのがこれです。貴重な本です。総合教育読本です。
この中に、当時の校長で鹿児島出身の川村という校長が書いておりますがこの巻末にあります。大きな声を出して読んでみてください。(笑)

(松本) 「これが植民地の学校だろうか。母校清水小学校蔡コンサン」

(蔡) このなかに私の思いの丈を書きました。「これが植民地の学校だろうか」これは、台湾から日本に引き上げた日本人関係の団体です。戦後65年でだんだん消えていく団体を吸収して京都で「ようじゅ(榕樹の会」という会があります。その会の大谷大学名誉教授の内藤さんという方が主催しておりますがそこに投稿した本です。

(松本) 最近それは復刻されたのですか?

(蔡) 私が3000冊復刻しました。これは、今日参加された皆さんにお届けします。今日は3冊しかありませんがこの本の中でパッと開けたところこれは何ですか? 「石童丸」です。皆さんこの石童丸というストーリーを知っていますか?

(日比谷)  はい、知っています。

(蔡) わー、こわい。石童丸のお父さんは誰? どこの出身?
肥後の国です。カミカヤへ行って出家されるのです。石童丸を残して。石童丸は高野山まで行く。お父さんとパタッと出会うがこわいね、、、その後お母さん、お姉さんが亡くなる。親子でその後全国巡回して結局、松本 善光寺付近で亡くなる。、、、、このストーリー皆さん知らないでしょ。
もう一つ、(パッと開けたところ)(私、目が見えないから何ですか?) ・・・「非常時はつづく」・・・荒木貞夫だ。荒木陸軍大将が「非常時は続く」と昭和10年。その時に非常時という言葉ができたのだ。その「非常時」という言葉で歌がありますけど皆さんご存じ?
この中にあります。「非常時来たれり、われら~が国に~~~」
この内容は、歴史、地図、わらべ唄、国民歌、模範xxx、おとぎ話、難波節、詩吟、筑前琵琶、薩摩琵琶、ありとあらゆるものが入っている。
2,3日前にパッと開けたところが、松岡洋祐が国際連盟脱退で帰ってきたところの、「日本の青年に告ぐ」で「がんばれよ」というレコード7枚、この中に入っています。
それで、もう一つ面白いのは、やまたのおろちがある天の岩戸。スサノオが悪いことをして皆さんがいう天帝の差、・・・・皆さんご存じ?(笑)・・・アマテラス大神が、天の岩戸の中に隠れてしまう。世の中が真っ暗になる。いわゆる八百万の神々がどうしようかとなやみ、サカキをかけヤタの鏡をつるす。そして日本のストリップショーの元祖とあがめるみなさん、アメノウズメノミコト、彼女が本当にストリップをやるんです。そうしたら大神がわたしがいないと世の中が真っ暗なはずなのに、何であんな愉快にみんな騒ぐのか。夜鳴き鳥、大神がちょっと戸を明ける。神々が鏡に映って、タジカラノミコトが戸を明ける。「あなさやけ、あなおもし」その「おもし」がこの中にはっきり書いています。「面白い」という言葉の語源です。それを私たち75年前に叩き込まれているのです。それが日本のっ植民地統治ですね。
そのために、あのアカンの大馬鹿野郎や村山富市みたいな奴が誤っているですね。あんまり皆さん良いことばかり教えたからそれを誤っているんだ。あの大馬鹿野郎が。誇りにしないといけないんだ。

(松本) これを蔡先生は2006年に復刻されたのですね?

(蔡) はい。私が復刻しました。3000冊のうち2500冊は日本に行っている。日本人もっと誇り持ちなさいと。それでこれ鈴木先生にも。

(松本) 鈴木先生へのサインお願いします。

(蔡) ペンを貸してください。阿川先生にも同じ言葉書きました。日本の誇りです。

(松本) 奥様はお元気ですか?

(蔡) 家内から長いのは止められている。今朝朝飯抜き。午後バナナ半分。ご飯小匙。おみおつけ、お茶碗一つです。

(蔡) 今日は3冊しか持ってきていませんが、あと20冊皆さんへお送りします。御読みになってください。・・・御礼

(松本) 呉建堂さんがお亡くなりになりましたね。

(蔡) 呉建堂氏と私はケンカ仲間です。彼は8段で、私は昭和19年からの初段。やらん。飲み仲間で・・・オレは指11本足らないから・・・指20本しかないでしょ。和歌は31文字。(足も入れて)
私が台湾歌壇に入った一つの大きな理由は台北(タイホク)歌壇を台湾(タイワン)歌壇に名前を変えた。タイホクだと蒋介石にしょっぴかれて殺されるから。金美齢が早稲田に入って台湾稲門会。それだけでブラックリストです。シナ人は台湾という言葉を使わせない。だから呉建堂もタイホクが使えない。タイペイは北京語です。6年前に台湾歌壇に名前を変えた。声明をしようとしたら反対したシナ人がおるんです。その時は私のようなゴロツキがいないから私が出て行ってチャンとしたら静かになりました。
巻頭言に私は声明文を書いています。今若い者を入れて勉強させていますけどいつまで続くか。台湾では和歌、短歌、川柳、俳句「美しい日本語を守る会」どこの国にありますか?
敷島の道を読んでいる国はおそらくブラジル以外にはないでしょう。最近は皇后陛下がおつくりになった本が「瀬音」という本になっています。その「瀬音」をなんという方か一生懸命フランス語に訳して、フランスでずいぶん反響があったのです。フランスどころかアフリカまでこの皇后陛下の御歌の反響があったのです。俳句、和歌や川柳を外国語訳にしてもいわゆる日本人が持っている「わび」、「さび」「もののあわれ」というものはやはり日本語でないと駄目なんです。

(松本) そこで鈴木先生が日本語を世界に向かって広げる。「日本語教のすすめ」があるのです。

(蔡) 藤原先生は、今英語の教育がどうのこうのではなくて、その前に日本の国語を徹底して教えろといっています。

(松本) 一に国語、二に国語、三に国語ですね。

(蔡) そうです。歯医者でもやれコミュニケーションが英語だといい、それからあれ何ですか「楽天」か「転落」か、変なことやっていますね。私はおかしいと思うんです。自分の国の言葉をしっかりと学んでそれからやるべきです。それが何で相手が英語なのに英語でやるんですか? 相手が日本語でやる。おじいちゃん、日本語教えてくれよというぐらいのプライドをもたないと日本だめになるんですよ。
(松本) 全く同じようなことを鈴木先生も言っています。
とこで先生この歌壇に「こうらいよ、わがはらからよ、国民(くにたみ)よ自力で戦えひとのため」 というのは?

(蔡) アメリカが台湾と国交断絶したときアメリカ国会で台湾関係法を立法した。アメリカは台湾関係に対して台湾海峡の兵力については、異常に関心をもっています。台湾海峡が戦(いくさ)になったらアメリカは台湾を守る義務があると書いている。私は国民(くにたみ)にアメリカを頼りにするな。自分が強くなれといつも言っているのです。
だから、日本がアメリカの核の中でそのままでいいのか?それは、賢明な日本の方が決めることであるけれど4,5日前 昭和の政治家で日本の方に聞かれたことがある。誰かおるか?おりません。最近のはヘナヘナを除いて吉田茂と岸信介先生だと。岸先生は(?)思案しませんでした。50年前ですか、安保条約改正反対の時に樺美智子さんが亡くなったときに昭和の怪物をやったでしょ。立派ですよ。あれがなければ、どうなっているか。最近みたいにハトポッポが政府、天皇がドウのコウので今こうなっている。将来どうなるのか?私、沖縄の仲井真弘多とは飲み友達です。お互い酔っ払って洋服を交換した中です。20数年前です。

(李) 間違えたんじゃない?よれよれの服で(笑)

(蔡) その時彼は通産省の沖縄の職員で転勤で東京で課長になる前にバーへ行って「仰げば尊し」を歌っていた。“ママさんの恩~~”と歌ってチカッと目が合った。それから二人でどうなったか・・・その時交換したんですよ。その後のある年 国場組 沖縄のトップの会社ですが時間をくれと言ってきました。

(松本) 李先生は沖縄と台湾の交流をされてきた方ですよね。

(蔡) 時間よこせと言ってきた。それがなんと12月23日でした。アサタローセブでごちメニューで台湾式のお誕生日祝いのメニューで2千ケイチク(?)二〇〇三年天長節とありました。・・・やっぱり一寸あるんですよね。・・・いわゆるウチナンチュウ、彼らが言うヤマトチュウ・・・でも喜んで飲んでくれましたね。・・

(松本) 相当あるんですよ。

(蔡) 私沖縄の子供たちに「君たちこそ純粋な日本人だ」と。 君たちがしゃべっている言葉、文章とヤマトの言葉は文法すべていっしょだ。純粋の日本語だ。君たちがしゃべっている言葉は我々がしゃべる台湾語、北京語とは全然文法が違う。君たちは純粋な日本人であることを誇りにせよ。そこの大学生がくるとこればかり言っています。
私の話の時間は1時間ということでこれで終わります。何か質疑応答ということがありましたね。それを聞いて、昔司馬先生が講演会で今日は自分がしゃべらずに皆さんがいろいろ聞いてくださいということをされました。今日は、皆さんもそれをしてください。何でも分からないことは分からないといいます。
司馬さんは座談会では本当にかしこただしい(?)ですよ。

(松本) 司馬先生は「台湾紀行」の中では老台北をラオタイペイとわざわざカナをふっています。

(蔡) シナではラオペイといいます。北京のことをよく知っていて北京にズーと住みついていて相当な家柄の人をラオペイといいます。私はそれをもじって司馬先生が私をラオタイペイとネーミングしました。

(松本) でもね、パク先生は台北をタイホクと呼ばれていますね。それでもいいんですか?

(蔡) これは、固有名詞でラオタイペイです。司馬先生のご本の中で台北を回った時に、地本と書く温泉があります。週刊紙では司馬先生は北京語でチーペンとルビを打ったのです。私は「司馬先生これはチーペンではありません。これはチッポンと呼びます。チッポンというのは、ピューマ(?)の原住民の言葉です。我々台湾人も台湾から引き揚げた日本人、台湾を故郷だと思っている日本の方もチッポンです。チーペンではありません。それでご本になった時、はっきりチッポンと書いてくれました。すごく嬉しかったです。
険しい山のことをチッポンと言います。ピューマ語です。ビューマ(卑南族)というのでは、台湾出身でオリンピックで十種競技で銀メダルをとったクイヤンというのがいます。揚伝広(ヨウデンコウ)といいますが彼はピューマ内です。チーペンです。
何か台湾のことで皆さん質問がありますか?

(小川) 李登輝総統の「武士道解題」という本のなかで、やはり、老台北の話が紹介されてあって、その中で蔡先生は三つの神様があるとおっしゃられています。一つは観音様、二つ目は馬祖様、三つ目はマリア様と語られています。

(蔡) そうです。順番はマリア様が先です。

(小川) 三つも神様を持っているのは、先生だけなのでしょうか?台湾の一般の方も沢山神様をお持ちなのでしょうか?

(蔡) 宗教の話になりますが、キリスト教でもカトリックなどいろいろな宗派があり、また仏教でも宗派が相当ある。それから馬祖様というのは道教。これは人間が作った神様である。それはどうでもいいんですけど、私はあらゆる宗教を尊重しています。たとえば、キリスト教に無教会主義の宗派があって、日本人のキリスト教といっていわゆるマクヤ(幕屋)が今でも日本のあらゆるところにあって、教会なしでも日曜にお祈りと勉強をお互いにしています。

(松本) 内村鑑三の話ですか?

(蔡) はい、戦後は瀬島イクロウ先生というかたが熊本からまた起こして、そのマクヤの宗旨のなかに“大企業は、われわれは、考案した大和魂を取り戻すことを努力する。”私が共鳴したことは、7つかいくつかありますが、“我々は、現地信仰の福音を広める。”“我々は他の宗教を排斥しない。”“われわれは、オソギ様(拝むとかく?)”。そのマクヤのかたは非常に日本という国を愛している。私は、いつも日本の学生たちにも台湾の学生たちにも言うのであるが、“日本の国を愛せ”と言います。これ偶然に、藤原正彦さんと同じです。
“自分の国を愛せ、自分の故郷を愛せ”です。自分の国を愛することができないと外国を愛することができない。私は台湾です。偶然、彼と知り合いになる前から同じことを言っているのです。“日本の国を先ず愛せ。”“自分の国を愛せ。”“台湾という国を愛せ”といっている。すべての宗教はそこから出ていると思うのです。だから私は、日本にある二つの宗教だけは、NOと言っています。一つは麻原彰晃がつくったオーム真理教。もう一つはオーエ(OHA)真理教、大江健三郎がつくったもの。沖縄に行かずに何を書いているんですか?沖縄の子供たちは、沖縄の人たちは如何に戦ったのですか?それをオーエ真理教は、孫引きだとかマタビキだとかいろいろなものを読んでいわゆる沖縄の集団自決は軍部が関与しているだとかやれどうだとか書いている。それを曽野綾子先生は一つ一つ覆していますよ。私は大江健三郎はこの点許せない。台湾人、外国人だからそういうことはあまり言えない。それからもう一つ。
先日李登輝閣下が沖縄へ行ったとき、私に何か書けといわれたことがある。トヨ(?)の会の方でね。閣下が平和公園へ行って、当時の鉄血勤皇隊やひめゆり部隊、さくら部隊だとか沖縄県民へ真っ先に供養に行っているのです。沖縄について真っ先に行っているのです。そのことを書いてついでに大江真理教のことも書いたのです。“現場にもいかず、謝りが見誤るでしょうか?”(笑)それだけ

(松本) これは、座間味島でありましてね、こちらも知り合いの人間がいます。いろいろ聞いています。

(蔡) わたしも半分日本人でした。しかもこの真理教、天皇陛下からいだだく文化勲章を拒絶した日本人です。ノーベル賞をもらうと自然に文化勲章がもらえるのです。ノーベル賞が発表された、大江健三郎は文化勲章はもらわないとはっきり言いました。それからノーベル賞をもらう時の演説、みなさんそのテーマを覚えていますか?
“曖昧な日本と私“ です。自分の祖国を曖昧だといっている。ごめんなさい。あれ本当に大江真理教です。

(松本) あれは、川端康成の講演を意識して、別の講演テーマになったのです。

(蔡) 川端先生、本当に素晴らしいです。川端先生の遺物を台湾で展示をすることがありました。川端先生は台湾が好きでした。その時北条正子さん(先生のお弟子)と川端先生夫人が台湾にお越しになって関係先を訪問した。その時の政府の広報部の通訳官が広報部長が、北条先生に“お名前はかねがねお伺いしております”という北京語をしゃべったら通訳官が何と“キサマの名前は良くわかる”とやった。大変ですよ。ところがキサマは貴様ですよ。それで北条先生がカーッとなったが、運が良かったのは、当時の内務省の大臣が東大留学の李さん。その後で北条先生が台湾の知り合いの人と酒を飲みながら、その相手が兄貴を誘って“美しい日本語を勉強しよう”という会ができたのです。こういうエピソードがあるのです。“キサマの名前はよくわかる”。ところがよく見るとキサマの貴は“貴い”です。

(松本) はじめは本当の“貴様”が少しずつ変わっていったのです。鈴木先生が書いています。日本語では人称代名詞の“あなた”は英語でいう“You” とは全く違うのです。
初めは“貴様”という意味がだんだん変わってしまうということが日本語ではよくあることなのです。鈴木先生の本を良く読んでいただけると今の話が良く分りますから是非お読みください。
この“日本語教のすすめ”の本も大江教のように宗教のように日本語を広めたいというのが鈴木先生の考え方です。鈴木先生は大江健三郎とは全くレベルが違ってもっと偉い先生です。物事をもっと根底から見ています。座間味の問題について私自身は他の証言も聞いているのでこちらも言いたいことがありますが、ここでは置いておきます。
この本を読むと思いこみだけではなく蔡先生の日本についての話がもっと説得力を持ちます。今度鈴木先生の世界という本を九月に出しますからお送りします。“日本人はなぜ日本を愛せないのか“という鈴木先生と蔡先生は”日本人より日本を愛している“のですから同じことを語っています。蔡先生がこの本を読まれて、短くても良いですからその感想を書いてくださったら、その蔡先生の感想をその機関紙に載せます。私は、蔡先生と鈴木先生を仲良しにしたいのです。今後日本に来られた時は、鈴木先生と一緒にお会いさせます。
鈴木先生の本はやさしい日本語ですから是非お読みください。

(蔡) 大正15年だ。

(松本) 藤原正彦氏も鈴木先生からものすごく学んでいますよ。“国語のすすめ“なども鈴木先生の影響から書いたのです。藤原さんは鈴木先生を尊敬しています。

(蔡)  はい。藤原正彦さんに会った時、私お父さん(新田次郎)の作品をズラーと並べてみました。そこまで読んでいるんですか。それだけではなく、お母さんが書かれている“ナザレの星は生きている”です。お腹が減って減った時に重湯のカスを鍋から舐めて、その時に正彦先生のお兄さんの正弘さんが5つの時、“お母さん、僕お腹減らないから”といって、正彦さんは3つですよ。それで逃げた話ですね。それを読んだことを藤原先生に言った。藤原先生がそこまでご存知ですか?ということがありました。
それで日本の方にお聞きしたいのですが、太郎、次郎、三郎・・・新田次郎、城山三郎、太郎は誰がいたか忘れちゃったんです。

(松本) 麻生太郎がいます。(笑)

(蔡) 小説家ですよ。太郎は忘れた。(司馬遼太郎?)
次郎は、います。城山三郎。広田弘毅のことを書いた“落日燃ゆ”、あれは素晴らしいです。
日本人ですよ。また新田次郎はいろいろ書いています。「神戸の六甲山」いりこを炒ってボリボリ噛みながら下駄履いて山登りしている。日本人の山登り、いわゆる素晴らしい恰好のあるアルピニストです。山を登っているんじゃない。その新田次郎、「強力伝」「孤高の人」「冬山の掟」「聖職の碑」「八甲田山」など沢山読みました。藤原さんビックリしました。そんなに読んでいるんですか。

(松本) すごい読書量ですね。それは、確かに藤原正彦氏はビックリしたでしょう。自分のお父さんとお母さんの関係本までズラーと読んだのだから・・・

(蔡) 彼はここで泣きましたよ。お兄さんが“お母さん、僕お腹減らないから、、、、”そういうこともありました。だから、36年日本が統治した朝鮮と50年間日本が統治した台湾と日本人は何をやったのか。菅直人が100年目の時に朝鮮に謝った。我々台湾人はどういう判断だったか。我々台湾に謝るべきだと、、、ありません。日本は台湾にすごくいいことしてくれているんです。一番大きいのは「公」(おおやけ)と「私」(わたくし)ということを教えてくれたのです。先程いいましたね。「清」というのは国じゃない。「明」「唐」とおなじく王朝です。彼らには「公」がない。国を愛するには「公」がいる。司馬先生いわく、「中国で最高のモラルは孝行である。おれの親父やおふくろには孝行する。それが最高のモラルである。」“君は国のために死ぬか? 死にます”という中国人は一人もいません。ところが我々50年間生まれてから19歳まで日本人だった。君は台湾のために死ぬか?死にます。今日、フーッと思いだしたのですが、名古屋の藤田大学の真嶋先生は眼科のトップでした。厚生省がまだOKしない前に白内障の手術を真嶋先生がしてあげた。曽野綾子先生に神様の光を与えてくれた先生です。私も片目つぶして真嶋先生のところへ行ったんです。真嶋先生は、教え子2人付ききりで検査してくれました。その後真嶋先生いわく、“蔡さん、左の眼は無理だよ。治らない。”(蔡)“はい、、、、先生、右の眼は守ってください。”真嶋先生は私と司馬先生の関係をご存じだったので彼も冗談半分で(先生)“なぜ、右の眼を守ってくれというの?”(蔡)“はい、シナに鉄砲撃つためにはこの眼が必要ですから。”
真嶋先生喜んでくれました。(笑) 今でもこれウソでないですよ。
すぐ近くに淡水という町があります。港です。あちこちに20年ぐらい前に牛の角でつくったパチンコもっています。鉄砲がなくても空気銃がなくてもパチンコで戦う。だから、いまでも台湾のためには死ぬとはっきり言っています。
いつか自衛隊の方が結婚前に来たんです。何かの団体でご夫婦、許婚同士で来たんです。その時その団長が“先生、この二人結婚するから何か言葉をあげてください。” 私は先ずお婿さんに“君は自衛隊。国のために死ぬか?”彼は、はっきり“死ぬ”と言いました。その奥さんに“貴方の将来のご主人は素晴らしい方だ。”だから彼女にこうべの郎女がつくった万葉集の歌をあげました。
“わが勢子は、もろなおもほし ことしあらばひびのみずにもわれなけなくに”いわゆる防人の歌です。防人が国を守るために“心配しないでください。事があったら私は水の中でも火の中でも私は。。。。。”この歌を差し上げました。日本の方、キョトンとしておりました。偶々私はこの歌が好きだったんですよ。
この間も鎌倉出身の方に歌を差し上げました。万葉集ではなかったのですが八幡宮の倒れた銀杏の樹ね。その銀杏の木に隠れた源実朝が殺された。その実朝が作った歌を我々台湾人は12,3歳のころからタタキ込まれていました。
“海はさけ、山はさけ、海は果てなん やまびこの君に歌ごころわれあらめやも”
いいでしょう。“山が裂けて海が枯れても 大君よ、私はふた心ありません。”立派ですよ。これ日本です。この日本をこれからどうにかしなければならないと私に注文。蔡よお前は日本人じゃないのに。。。 私は首から上は日本人ですよ。考え方から何から日本人です。私の女房はわれわれの見事な日本語です。
“アー冷たいわよ。クーラー”日本語です。それが台湾なんです。その台湾、アカン(菅)なぜ一度も台湾に来ないのですか?

(松本) 蔡先生が生まれての言語は、日本語、台湾語、北京語と3つありますが、その中で先生の第1言語は台湾語ですか?

(蔡) 日本語です。いわゆる母語です。私は北京語を排斥しません。コミュニケーションにはイイ言葉です。

(松本) 帰ってこられた時のこと、体操の先生になった時のこと書いておられますね。北京語の社会になってしまったけど体操の先生なら言葉を使わなくて済むから。。。ということも書いておられますね。子供たちから学んだというようなことも。。。

(蔡) 私は、子供たちに北京語も教えている。私は北京語を拒絶しません。しかし、それを国民党が国語だよと持ってきた。それは、私は受け付けません。強制的だから。北京語はイイ言葉。いまシナ大陸の彼らは、フトンハ、普通語と言っています。それから南洋では“カゴ、ワアイ”と言っています。コミュニケーションがいいんです。それを台湾に持ってきて“北京語はお前らの国語だよ。”という蒋介石がどこの言葉喋っていますか? 浙江語です。宋美齢は上海語です。李登輝閣下は宋美齢とコミュニケーションするとき通じないから英語でやっています。
だから、今朝ズーと考えました。皆さんには素晴らしい国旗があり、素晴らしい国家がある。台湾にはそれがないのです。
例えば、ヤワラちゃん。金メタルとって日の丸がスルスルと上がる。君が代がなる。あるいは北島君。水泳の、、、、それを見て眼がうるんだ。という歌を我々の仲間がいつか作っています。私それを取り上げて“素晴らしい”、我々台湾人には今、国の旗がない。国の歌がない。あの青天白日旗は国の旗ではない。(国民党の旗です)だから、皆さん幸せです。
幸せすぎてわからない。で、、、アカン(菅)は悪い。君が代を歌わない。おかしいでしょ。
十数年前ですが、私、阿蘇でしゃべったことがありました。武蔵丸は優勝しても君が代を歌わない。グーと口を閉じている。本当に“帰れ”と言いたいぐらいです。日本の相撲の横綱になって、、、、白鵬を見てみた。ちゃんと唇を動かしています。それは、パーフォーマンスではない。小さい声で歌っている。武蔵丸はこうです。(口をグーと閉じる)おかしいです。

(松本) 白鵬は今回、天皇賜杯でなかったなどと泣かせることを言います。
天皇から言葉をかけられたりして、なかなか彼はアノ世界で生きているんです。
しかし、蔡先生はよく見ていますね、、、、。すごい。

(蔡) 私が靖国神社に昇殿参拝に上がった時、100人ぐらい日本の方が集まって大きな声で君が代を歌いました。勅使がおいでになった。何年前かな、、、大きな声で歌いました。
日本の講演会でこんなことがありました。あんなすばらしい国旗を皆さんが世界一美しい国の旗を皆さんが要らないというなら、私は輸入します。(笑)
その代り李登輝総統を日本に輸出する。(笑)
本当に李登輝閣下を日本に輸出したら素晴らしいと思います。

(松本) (名刺を指して)この李登輝民主協会という会は? 理事長(蔡)と常務理事(李)ですね。

(蔡) これは、去年の8月に頼むと言われたのです。選挙前に呼ばれたのです。これから民間の台日間の絆をもっとハッキリとしないといけないのだと。。それは君以外にいない。やってくれ頼むといわれた。断りました。

(松本) 李登輝先生は今でもお元気ですか?

(蔡)  お元気です。私が断った時顔色変えたんです。ご老体がね。“何?”“閣下、なぜヤレと命令してくれないんですか?”台湾語では“イイアル”“アアーアレミチョ”“ハイ”で引き受けたのです。
理由は8月の選挙前、日本のことを、李登輝閣下はすでに、自民党がこうなって、民主党が終わる。民主党が終わったら、台湾のいろんな対日関係、そのために民間の対日関係の絆をもっと固めなければいけない。彼が良く言うのですが“日本で一番有名な台湾人は私だ。その次に有名なのは彼(蔡)、その次に有名なのは彼(李)だ。だから、あんたがいないとできない。出てくれ”といわれ引き受けた。

(松本) それで理事長になられたのですか?

(蔡) はい。日台間の交流で一番大きい団体は台湾では高座会です。たとえば日本の李登輝友の会。どういうことをやってくれましたか。台湾人の日本の永久居留、居留証くれますが国籍は中国。それを何年間も頑張って、頑張って3年位前に石原の慎ちゃん。東京都は台湾にした。それをまた頑張って、2年位前に国会で台湾人の国籍居留は台湾になった。これを日本の方がやってくれたのです。それから今、ノービザで台湾人は日本に行けます。これも日本の方の応援です。力が大きいのです。これも台湾を愛してくれる日本人それだけ多いのです。皆さんだってそのために台湾においでになったのでしょう。
だからね、今日はね、皆さん日本人をウーンと叱りつけて帰ろうと思っていた。(笑)
あのアカン(菅)はあかんです。

(松本) 自己不信しか考えてないから。。。。

(蔡) 例えば天皇陛下のお言葉に“あーそー”があります。 あの“アソー”(麻生)は、漢字を読み間違えるけど未だ立派ですよ。(笑) 福田のヤッちゃんはね、、、余計なこと一つやりました。“靖国に行きますか?”“友達の嫌がることはやらない。”そんなこと言わなくてもいいんじゃないですかヤッちゃん。親父(福田赳夫)だって世界に残る言葉を言っているでしょ。“人命は地球より重い。”テロリストに銭をあげたからね。麻生まだ可愛いです。彼の顔を見ると天皇陛下を思い出します。昭和天皇。

(松本) 昭和天皇とどこが似ているんですか?

(蔡) 昭和天皇様の歌を李登輝閣下が武士道解題に書いています。“降り積もるみ雪にたえているかえる まつぞおおしきひともかくあれ”これは、昭和21年の陛下の歌です。
“あーそー”でしょう。では、止めましょう。(笑)

(松本) これは、麻生さんとは関係ないでしょう。(笑)
蔡先生お元気なによりです。しかしこれを自費出版されたとはすごいですね。

(蔡) 3000部です。これは、日本の方に差し上げるためにやったんだ。
今 台湾にうちの学校の卒業生でこれを読める思い入れになるのは200人もいません。

(松本) 蔡先先生は今半導体のデザインの会社の会長などもされているのですか?

(蔡) やっています。名誉会長です。いまの若旦那の会長は若い者がやっています。息子ではありません。私は息子たちにはっきり言っています。もしうちの会社がシナに行かなとつぶれるのであれば私が敢えてつぶします。シナには絶対行きません。憚りながら優秀な上場会社です。シナという国には行けないです。

(松本) 敢えてシナと言われていますね。そういえば鈴木先生もシナと言っていますね。

(小川) 日本のNHKの番組では古い映像やセリフを放映するときわざわざテロップをだして“当時のままの言葉を使っています。”と説明しています。クレームをつけられることを恐れて言い訳をしています。

(蔡) 私は、日本放送協会のホウはアホウのホウだ。

(松本) ダジャレを使うのも鈴木先生とよく似ていますね。(笑)
シナの言葉を制限するのはおかしいですね。東シナ海は我々使っているのに。。。。
東中国海とは言わない。あれは、もともとCHINAなのだから。。。。
このホテルの国王大飯店の名前の国王、エンペラーの由来は日本の天皇と関係があるのですか?
清ですか?

(李) 違う。このホテルのオーナーは高座会とゆかりがあって大阪にいる。建てたときに皆さんと相談してエンペラーとした。天皇とは関係ありません。台湾歌壇を創立した場所です。

(蔡) 帝国ホテルはインペリアルです。

(松本) あれは、間違いなく皇居の近くだからです。

(蔡) あれは、日本を代表するホテルであるということだからです。昔は日比谷倶楽部といって大したものですよ。それが、今インペリアルホテルとなりましたが、40年前から会員です。

(蔡) さっきの袋(二重橋)をみて感激しました。これシナ人に言わせると、“貴方のおかげで僕は涙流した。どうしてくれる。”といいます。シナ人は、すべてのことを相手の責任にしてしまうのです。自分の責任を持たない。
“おかあさん、東京だよ”というストーリーと台湾の映画で“おとうさん”という映画があります。“おとうさん”は面白いよ。たとえばサッカーかなんかの試合で日本とシナがやっている時に“日本頑張れ”ですよ。また、カメラ、写しても写らない。“アーこれ中国製だ。”(笑)

(石川) こういう台湾歌壇の会や友愛の会などでは、蔡さんのような年代ではなく若い方も出られているのですか?

(蔡) いま40代の人が何人か入っています。たとえば亡くなりましたが全日本川柳の会の会長今川ダンジロウ先生を偲ぶ会では、40-50代の会長と70-80の名誉会長が来ています。

(小川) 日本語でしゃべっておられるのですか?

(李) もちろんです。高座会もそうです。

(蔡) 私の弟分だった男がこんな歌をつくって阿川先生を泣かせました。
“北に向け年のはじめに祈るなり 心の祖国に栄えあれかし”
阿川先生これを聞いて奥さんご夫婦でオイオイと泣きました。

(李) その時は全行程通じて日本語で通訳をつけずにやっています。日本から来られる方が多いから、通訳をつけずに日本語でやりましょうと会の皆さんが同意してそれで20数年間やってきています。年々人が少なくなるけれど、元気でやっていきましょうとやっています。特に日台高座交流会では若い者を入れて来ているのです。私の方も2代目3代目を一生懸命募っているのですが、我々のように実状を知らない人には無理なのです。
台湾高座会というものがどんな会なのか皆さんに分かってもらわなくてはいけない。ブログには出ていますけど、昭和18年5月1日に台湾を出たのが第1回目なのです。第2回目が7月、私たちがお父さん(小川)に連れられて行ったのが9月なんです。その前に日本にはすでに第1回の前に最初に見習工を募集して養成して勉強させてあった。それで我々日本から行った第1回の者が2期生になるわけです。我々は4期生です。そのあと7期生まであるのです。お父さん(小川)の時までで3000名です。それから後が5000名です。その外に中学出が400名です。その400名は下級幹部という形で班長とか寮長とか世話をするために連れて行ったのです。その時は確かにひもじかったと思う。でも休みに外へ出て行ったら農家のおばさんが芋をくれるんです。それが何よりも楽しくて出かけたのです。

(松本) それは、大和ですか?

(李) そうです。今の大和市あたりです。ですから、我々台湾に帰ってきても後ろ髪を引かれたような感じで第2の故郷は大和だとして大和と数十年来往来しているのです。市長を初め地元から選出された国会議員、市会議員、県知事とか皆さんとは良く会っていて、5年前に、彼らは私たちがそれまでやってきた卒業証書と職業証明書を厚生省と交渉して60年目に発行してくれたのです。

(松本) それで大きな会をやりましたよね。

(李) それは日本でやった。60周年記念の里帰りとそれから卒業証書とです。その時に歌ったのが“仰げば尊し”です。阿川先生が涙を拭きながら褒めてくれたというのです。
それは、これだけ年月が経っても日本を忘れていない。そして、日本を、大和を第2の故郷として帰省するのだと大和市をあげて祝ってくれたのです。その前から、年に1度は必ず大和に行き、靖国神社に参拝してきました。

(松本) それは、戒厳令のあとですか?

(李) そうです。1988年解かれてから会ができた。会ができると竹の子のように出てきました。今まで抑えられて水面下にいたのが竹の子のように出てきました。台中で第1回の大会があった。私は古株であったが、その時さっきの国場組の会長の葬儀があったために、その日は欠席した。いろいろ経過あって、その時は、2年生の人が会長に当選して24人でやっていた。24人のものが50周年に第2の故郷にかえると約1300名が台湾から大和に出かけて行った。当時の大和市市議会の議長であった石川公広氏が偶々我々の舎監の息子で高座会のことを書いていました。

(蔡) その石川さんにこんな話があります。彼の小さい時に兄貴たちが頑張っている。ある時、“僕も台湾人だ”そして2004年に台湾の北から南まで人間の鎖を台湾人がやったことがある。二百万人が集まりました。その時に石川さんが一人で150Kmの南の方へ行って、 誰も知らないところで“僕は日本人です”といいながら一緒に手をつないで輪に入って参加しているのです。そういうことを日本の方がやってくれているのです。台湾を愛してくれているからです。

(蔡) 私もうひとつ皆さんの知らないことを申し上げてそろそろ帰ります。
台湾に日本人が神様として祀られている場所がある。ご存知ですか?一人や2人だけではありません。朝鮮にありますか?

(松本) それは、ないでしょう。

(蔡) 日本人が神様として祀られている。例えば軍国主義といわれても何といわれてもいいのですが、昭和19年の台湾沖の海戦、台南でアメリカが優勢にやっているとき、いわゆる海軍の飛行機が上空のB25を下から攻めようとした。当時のB25、B29はパイロットがボタンを押すだけで視界がないのです。どっから来ても鉄砲に当たる。当たったのです。海軍の杉浦という兵曹長に当たった。その場で例えばボタンを押して跳ね飛ばされて降りてパラシュートで助かったはず。その杉浦兵曹長がいま自分が飛び出したら、飛行機は台南市内に落ちる。これと似たことが数年前埼玉県で航空自衛隊にもありました。立派ですよ。事故があって郊外まで飛んだ。それと同じことをやって、彼はズーと操縦桿を抱えて結局、郊外のさとうきび畑までいって突っ込んだ。それを見ていた百姓が小さな祠で祀っていったのです。20-30年後に大理石で廟を造りました。鎮安宮といい、別名飛虎将軍廟としました。名前の理由は亡くなった遺骸の長靴、当時の軍は半靴を履いていたがその半靴に杉浦という名前があった。いわゆる当時の海軍の服装をした神様を木で彫ってマントを掛けてご本尊として拝んでいるのです。ズーッとです。その寺守が朝夕どうしてか煙草を7本点けてお供えにして祝詞をあげるのです。その祝詞が皆さん “君が代”です。信じますか? 夕方の祝詞は“海ゆかば”です。
私はその堂守に何回も会いました。日本語は下手くそです。台湾人がしゃべる日本語では“ダ”という濁音が出ないのです。“ダ ヂ ヅ デ ド”は“ラ リ ル レ ロ”になってしまうのです。“ソーラ、ソーラ”と言うんです。“蔡先生、もう一つ祝詞を仰ぐら”というのです。“その祝詞をなんら”と聞いたら“同期の桜”です。歌わしたら素晴らしい“同期の桜”を歌うのです。

(松本) 同期の桜が祝詞になるのか? それも面白い話です。

(蔡) “君が代”“海ゆかば”“同期の桜”が祝詞。どこの世界にあるのですか?
今でもちゃんとあります。日本の方を見て敬礼して朝は“君が代”を歌い、夕方は“海ゆかば”を歌います。台南にあります。先日堂守がなくなったので私生ける“君が代”“海ゆかば”を全部写真に入れました。皆さん信じますか? しかも面白いのは、その付近に交通事故などが起こらないのです。年に1度神様担ぎ出して、御神輿みたいに回らせています。

(松本) 同期の桜が祝詞になっているのはすごい話ですね。

(李) それ以外にもこういう話はいっぱいある。バシー海峡などにもある。

(蔡) 神様が沢山ある。海峡で日本の船がアメリカの潜水艦などにやられたでしょう。その遺体が台湾に流れてくる。台湾の一番南のガランビあたりに流れてくる。

(李) 地元の人が拾ってちゃんと英霊にしている。お寺をつくった。そのお寺に参拝客中に寺守がいる。それが台日高座交流会のエイトウ区会長なのです。その人が定年でやっと辞めて帰ってきたのです。日本から大切なお客さんが来るからというので、ここに来ている安部という雑誌記者がいるんですよ。 大行社という会社の。。。

(蔡) 大行社というのは、大正年間にできた優秀な右翼団体ですよ。これは、徳川 義親公と八尋(ヤヒロ)という海軍大将が清水行之助につくらせた団体です。その団体が安部という雑誌記者を台湾においていて、その雑誌が“大吼”があります。

(李) そこにxxxというお寺をつくり、その寺守が日本人が来ると列席して、皆さんと会っています。なぜこんなに仲の良い、これだけ日本語を使う人がいるのかと聞いてみたら、うちのエイトウ区の会長だったのです。

(蔡) 台湾靖国の宮司さんみたいな人はここの会員ですよ。台湾のC地区にありますが、この地方に一つのエピソードがあるのです。戦争中亡くなった台湾人が、無縁仏ですよ、戦後アレッと思ったら、夜中に兵隊さんが歩いている。“前~進め。”オイチニオイチニ。。。
その音が夜中に聞こえるんです。号礼までが聞こえる。“ゼンターイ、止まれ”
静かになる。アレッ?と見てみたら何にもない。声と音しか聞こえない。これは、亡くなった方の御霊の、まだ休まっていないから、台湾人が作ったこのお寺を潮音寺と言います。最近ちょっとお寺の権利でトラブっていますけど、、、その所有者が亡くなってその2代目が訳が分からず売ってしまった。一時荒れ果てそうになって私は、何かの講演で東条由布子さん、、東条英機のお孫さん、、、来る、来ると言って来ませんでした。
それ以後、夜中に兵隊さんが歩く音だとか号礼が、、、いわゆるそこの人たちの御霊が休めたのですね。
まだ、あります。今日は10時まで、、、(笑)
もう一つ
去年の4月にNHKのアホウ協会が、ジャパン・レビューでやったでしょ。台湾の年配の人集めて、好いことは消して、悪いことばかり言わせたでしょ。この時に、日台戦争という言葉が出た。いわゆる日本の領土になった台湾に征伐にきた。それを、日台戦争という言葉を使っている。その総司令官が北白川宮義久親王様。これは、明治になって、門跡だった出家された宮殿下を現俗させて北白川の宮様を作ったのです。その5代目のお孫さんが今日本の霞会館の理事長をやっています。霞会館は皇族、貴族たちの一つのグループですが、この5代目の道久王殿下は伊勢神宮の宮司をしておられておられましたけど、、、
義久親王さまは明治28年10月28日に台南で病気で亡くなりました。その病気を最後まで看取ったのが森麟太郎、森鴎外です。軍医官です。日記があります。その後台湾では10月28日に能久(よしひさ)親王を祀って台湾神社を各地につくって清水神社、台中神社など各地方に神社がありました。もちろんご本尊は能久親王だけではなくて、アマテラス大神やその案内した猿田彦ミコトだとか、アメノミナカミのミコトだとかを祀っていたが、これらは、蒋介石廟になって全部取り壊されました。ところが、能久親王殿下のお姉さまが骨癌で(亡くなられ)長野の善光寺の別院が台湾に出来ています。未だに素晴らしい金銀でできたご位牌です。能久親王さまとお姉さまのご位牌とが2つ、祀られて、未だに台湾人が拝んでいます。

(松本) 善光寺の別院が台湾にあるのですか?

(蔡) あります。30年前まで尼さんがズーと日本語でお経を読んでいました。今は台湾語でやっていますが、、、ナンマイダ ナンマイダとやっています。
私が持っていた僧侶の写真、これは、複製して後から送ります。陸軍大将正一位なんとか綬xxx、、、台湾総督北白川宮能久親王宮、女麗香(?)などとして祀られています。
台湾というところはこういうところです。

(蔡) シナ人がぶち壊すけどもう一つある。これは、本当に偶然ですけど、西郷隆盛が奄美大島に流されてアイカナという女性と子供をひとり作る。ショギョク(処玉) 正式の子供ではない。西郷菊次郎といいますが、十数歳に西南戦争で戦いに出ます。足をやられて、足を切られます。片足になる。当時の明治政府が立派だったのは、この西郷菊次郎をアメリカに留学させています。もちろん、西郷隆盛は最終的に明治天皇さまが名誉回復させていますが、、、

(松本) 弟が官軍についたということもありますが、、、

(蔡) その西郷菊次郎が日清戦争後、台湾総督府の役員としてまず、膨湖島に行くのです。膨湖島から、台湾の東のギランというところへ行って、群主になります。その時に洪水を静めるために西郷堤という堤防をつくるのです。明治時代です。その後、帰ってきて、京都府長になるのです。京都府長になったけれど大正年間に台湾の人が西郷菊次郎の顕彰碑をタケズルにつくりました。“あなたは、ギランという町の川を良くした。”と碑をつくた。それを蒋介石たちが来たとき、日本のものは全部打ち壊された。ところが、西郷菊次郎の顕彰碑の脇に2万人、不法建築のバラックを立てて、その住んでいた。それが、台湾が民主国家にならなければいけない時にバラックが壊され顕彰碑が出てきた。未だに顕彰碑が残っています。これは、台湾が日本に追われるためにやったものではありません。西郷菊次郎をこうやってチャンと顕彰しています。それで、はじめてのシンポジウムで私が鹿児島へ行ってしゃべりました。そのお孫さん(菊次郎の)が、焼き物(薩摩焼)をやっています。薩摩焼関係ではケンリュウ会をお孫さんがやっています。いまでもギランでは毎年、西郷菊次郎を偲ぶ会をやっています。
西郷隆盛は、2回島流しされています。1回目は僧月照とともに錦江湾に飛び込んで、月商は亡くなったけど、西郷は助かって、、、、その時薩摩藩から流された形だけど高砂の台湾に行けといわれて、台湾に行き、台湾のギランに上陸した。どうも西郷隆盛助平だから子供をつくった。本当かどうか知らないけど・・・

(松本) それは、本当かどうか? 台湾の人と?それは、聞いたことがない。(笑)

(蔡) 現地の人と子供が一人できた。そういう説もある。隆盛が帰った後、その現地の人お金がないから、大工か何かやっていたのだけど、カレンの方に住んでいたそうです。それを、西郷菊次郎が群主になった時に兄貴にあったという説があります。(笑)

(蔡) それは新潮かどこかに書かれました。数十年前です。

(松本) 聞いたことがない。

(蔡) あり得ますよ。

(松本) この人(中内)は、薩摩出身で詳しいですよ。

(中内)私は、鹿児島でも田舎の大隅半島の出身です。ソウ(?)です。

(蔡) 私は鹿児島には付き合いが多いです。引き揚げの時には錦江小学校に2週間おりました。羽曳野です。そこから第1船で台湾に帰ってきたのです。だから、鹿児島は、、、、喧嘩のファンは沢山おった。(笑)

(松本) 謙虚ですね(笑)

(蔡) それから、奈良の航空学校の教官になった。喧嘩のノミ友達いろいろおりました。
だからこれだけ覚えています。“よかにせどん”“よかおごじょ”(笑)それしかしりませんけどね、、、ただ一つだけ覚えています。
“孤軍奮闘 囲みを破って還る
一百の里程 塁壁の間
吾が剣は己に折れ 吾が馬は斃
秋風骨を埋む 故郷の山”
その時に西郷隆盛が死ぬとき“そろそろ ここでよか”別府晋介にそういって介錯させる。

(松本) 先生、ずいぶん詳しいですね。鹿児島人より詳しいですね、、、、(笑)
この中にはすごい資料が一杯ありますね、、、、お話は尽きませんけど、お約束の時間が過ぎてしましました。
(談笑とサイン)
(写真撮影)

(蔡) 松本先生、「総合教育読本」20冊を船便で送ります。

(松本) はい、お待ちしております。それから鈴木孝夫先生の本は、お見通しください。

(蔡) はい、読みます。

(松本) 読んでいただいて何か書いていただけると嬉しいです。短くても結構です。

(蔡) タイトル見ただけでも涙が出そうです。

(松本) そうおっしゃっていただける有難いです。鈴木先生にお伝えします。


(小川より李さんへ小川三郎土産進呈)(仏画絵、海軍工廠写真(横綱安芸の海訪問時)、名古屋名物ういろう)
(李さんより全員各位へ高座会資料を進呈)


(蔡) 最後にひとつ、約半年前に世界の歴史を変えた、明石元二郎さんのお孫さんが訪ねてこられました。私と仲がいいのです。そのお孫さんが何と今上陛下と小学校時代から仲が良い友達なのです。それで私2年前に東京で明石元紹(もとつぐ)さんに拉致されました。彼の家に行く前に霞会館に行って北白川親王の5代目のお孫さんに挨拶して、明石さんのお宅へ伺いました。彼の家で初めて私にばらしたことがあります。私の本を“文庫本ではなくでハードカバーの時に、僕は2冊買ったよ。”とニコッと笑ってくれました。

(蔡) 皇后陛下の歌のセオト、祈りの御歌、知っていますか。

(日比谷) はい、知っています。

(蔡) 皇后陛下は、そこら辺のいい加減に歌を作られる方ではなく、本当の歌人です。
皆さん、30分延長した。ゼニよこせ (笑)
3時半が5時半になってしまった、帰ったら女房にたたかれる。(笑)
皆さんのおかげで僕、家へ帰ったらそろばん2度と使わないんですよ。(笑)
台湾の刑罰は大きいそろばんに跪くのです。痛いんですよ。

(松本) 蔡先生どうも有難うございました。本をお待ちしております。

(蔡) 皆さん、座ったままで、、、 また、お会いしましょう。(拍手見送り、退席)


(李) 本当は体調も悪いけど、忙しい人なんです。日本からお客さんが来ると李登輝先生に一緒に来いと呼ばれる人です。李登輝先生に近い人です。名刺にある李登輝民主協会は彼を中心にやりなさいと李登輝先生から言われて始まった。その真っ先に電話がかかってきたのが私のところなんです。私のことを“おじさん、おじさん”と呼ぶのです。“おじさん、悪いけど名前借りますよ”といわれた。“李登輝友の会が今度李登輝民主協会に移るからまた、桜発展委員会というのをつくるから、高座会で見てもらえないかと頼まれた。我々高座会は全国で20の区会(地方部会)を持っています。今年は来月、連議大会(第23回)をショウカでする予定です。その時に15日までに申し込んでくれということになった。この会は1988年に始まって全部日本語でやっている。日本の大使も必ず来てくれます。蔡さんも来ます。新聞社の社長、大臣方々も来てくれる。日本からは、去年、大和市長が来た。今年は、大和市出身の甘利代議士が行きたいとのことでこれから案内状を出すところです。日本では、9月に代表選挙がある、それが終わったら少しこじれるのではないかと日本人が心配している。総選挙? そうなると衆議院議員が来れなくなる。あの人も自民党では相当格が高い人だから、もしかしたら大臣になるかもしれない。あるいは、風当たりの少ない人を出そうという話も聞いている。この人が来てくれると日本との関係がますます良くなるし、われが行くと必ず昇殿参拝だとか、コースが沢山出来る。去年は名古屋、今年は北海道に行った。来年は群馬に行こうと思っている。

(松本) (パンフレット写真を見て)これが、名古屋ですね。

(李) 来年は昇殿参拝の後群馬の太田市へ行くつもりです。あそこは、前に中島航空機製作所があった。小泉製作所、今は、東京三洋の工場になっている。生きている間は、思いを残さないようにと考えているのです。

(松本) 李先生はずーと高座会の会長ですか?

(李) ずーとです。まあ~来年で止められると思う。(笑)

(松本) 止められなくていいですよ。(笑) 少年工が日本から引き揚げられる時からずーとですか?

(李) ずーとです。可愛がられて、寮長だったので、、、楽な仕事だった。寮生活で人を叱るのが役目だった。

(松本) 蔡さんの方が年齢的には下なのですか?

(李) 彼は昭和5年生まれです。

(松本) 蔡さんも一緒に引き上げてこられたのですか?

(謝) だいたい平均年齢は皆私と同じような年令です。

(李) 僕は、中学校からいったから、、、

(松本) だから、リーダーだったのですね。大体少年工というのは15歳から18歳位ですか?

(李) 13歳から20歳位までです。小学校5年を出た人がいるから、、、
休暇で町に出ると農家のおばさんが必ず菜っ葉をくれたのですよ。小さい子供が菜っ葉を欲しそうにしているから、可愛そうだとくれたのです。台湾から飴玉を送ってくると、砂糖が入っているからお世話になった所へは必ずお返しに持っていった。そうなるとまた食べられる。そうして交流していると農家の家まで遊びに行って、仲良くなり自分のうちみたいになって、第2の故郷というものが生まれたわけです。そこに我々の“交友の情”ができたのです。台湾の心を持っているものだから台湾をこれから立派にしていかなければいけないという会ができた。そこにあるあずまやは50周年のときに建てた。クギ一本まで台湾から持っていった。靴だけは日本で、、、そして、大和市に寄贈した。海軍工廠の近くです。市街地ではなく静かなところに立てた。菩提寺は善徳寺です。

(小川) 慰霊碑は早川さんですね。

(李) あれは、昭和38年に作ったのです。自分のうちも建てずに、先にそれを造った。それから台湾に出向いてきて遺族を訪問した。台湾人としては早川さんを恩人として今でも尊重しています。今年亡くなった。1月17日です。94歳です。次の日に通夜にでかけ告別式とお墓まで行った。遺族の皆さんから葬式の最後に一言言ってくださいと言われたが、“本当に有難うございます”とだけ言って、後は泣き虫だから何も言えなかった。
そのことを台湾のみんなの集まりの会で一緒に黙祷した。過去の先生を偲んだ。ちょうど我々が日本に渡った49年目にさっき言った石川キミヒロ氏という舎監の息子が大和市の議長で台湾に来た。“何を我々が残さなければいけないものがあるか“について皆で相談した結果、やっぱり思い出したのが東屋なんです。それで、その設計者を連れてきてくれたのは、そこに立っている張さんです。それとその建物の建築屋もあの人の斡旋で連れてきたのです。

(松本) 高座会というのは蓄積が大変なものですね。

(李) 靖国神社に行くと必ず昇殿参拝しています。終わったら靖国会館で昼食会です。その昼食会には我々と仲のいい東京にある団体(台湾協会、李登輝友の会、日台文化教育会、台南会、など)と一緒に親睦の絆を深くします。それから約1週間の旅をします。
日本からも11月のころの大会にそれらの人たちが来ます。大和市のみならず東京都からもです。特に今度の台湾の選挙で台北県が新北市に変わるのです。そうなると今までの近郊市が区になるのです。新北市の中に板橋区ができるのです。いま東京の板橋区とは往来をしている。将来は姉妹提携に持って行きたいと思っています。

(松本) (神山さんに)あなたは、板橋区ですよね。
今、台日交流の一番の主力は高座会だと蔡さんがおっしゃっていましたね。

(李) だから、李登輝さんも桜のことなら高座会にお願いしたらといって私が引っ張り込まれたのです。それで常務理事と同時に桜発展委員会の主任委員になっているわけです。だから申請が出てくると出すか出さないかは委員会の手にあるのです。

(松本) 台湾高座会は何人位いらしゃるのですか?

(李) 今は減りました。何百人です。(千人以下になった)前引き上げてきたときには7千人ぐらいいました。最初は、8,200名いた。爆撃などで約60名が亡くなっている。60人が靖国神社に合祀されている。

(松本) 未だ子供のときに亡くなられたわけですよね。13歳から20歳ぐらいまで。

(李) 昇殿参拝をしています。宮司さんが出てきます。

(石川) 台湾靖国はどこにあるのですか?

(李) 新竹の近くです。シンフというところです。

(石川) それは、日本式の神社ですか?

(李) 廟です。位牌を祀っている場所は棟が違います。一人一人の位牌があります。日本の宮司が来られた時最初は本当かと思っていたようであるが、中へ入った時、李登輝さんのお兄さんの位牌があって関係者が上に行って写真を撮ってきて見せたところ、そこの主神は三種の神器です。ヤタの鏡など、、

(石川) その廟の名前が台湾靖国神社というのですか?

(李) 違う 違う。サイカグウといっています。台湾高座会のメンバーが渉外関係にいて日本からの人を位牌へ案内していた。

(日比谷) それは日本のどこからら分祀してもらったのですか?

(李) ある日本の方が靖国神社に行って名簿をもらってくれて、台湾で祀ることを許可してもらってきています。その名簿を証としています。そこの廟の宝として残されています。
今度、また、コンピュータで新しく作った名簿がある。実際最初は我々も信じなかったのです。それで調べたら、我々の亡くなった60名の慰霊者の名前が入っていたのをみて間違いないと確信した。一部漏れたものがあったので日本側の高座日台交流会の会長が靖国神社に祀りたいと厚生省や靖国神社とかけ合った。最終的には天皇の決裁を戴くことになったらしい。それで合祀されることになった。

(松本) 両方で祀っていることになるのですか?

(李) そういうことです。我々行けない場合には、皆さん行ってくださいと遺族にも言っています。例祭があると案内が来ます。我々も出かけていきます。そこの区会も行くことができます。

(松本)  この“故郷を離れて”は 高座会の会歌ですか?

(李) これは、アカシア歌のメロディーをいれて日本名の台湾の人が書いたものです。
これはいつでも会で歌う歌です。

(小川) 会紙「流星」に、海軍工廠に三島由紀夫がいたと紹介されて「仮面の告白」でも台湾少年工が出てきますが、彼を覚えていますか?

(李) 居った 居った。でも勤め先が同じでも部署が違うから・・・私はどっちか言うと宿舎本部なんです。現場には行かない。飛行機のヒの字も触ったことがない。でも、実習だけは、お父さん(小川三郎)が主任だったからそこでハンマーを打ちつける勉強だけは約一週間やりました。それから、先ほどの石川さんからお前には合わないから宿舎本部に帰ってこいと与えられた仕事が寮長なんです。1舎に10棟あるわけです。1棟に20室が上下に10室ずつありました。必ず1人寮長がいました。とにかく、寮長の不足の時には11人で逃げを見る場合があるのです。それから暫くして名古屋に行った。名古屋に派遣されて三菱の工場内に皆さん日参されて仕事をしていた。昭和18(19?)年9月の名古屋大地震があった。道がデコボコに曲がって、それをやっと直した時点で今度は、12月18日の名古屋大空襲にあった。その時は、何か虫の知らせかどうか、歯が痛いので自転車に乗って町医者に言っていた。本部にはタコツボのような避難壕があった。そこにいなかったので助かった。運が良かった。それ故に高座会が非常に可愛いのです。
その間のことです。大村(九州)に航空工廠がありました。毎年12月25日に霊祭がある。そこに元21工廠の殉職者慰霊塔がある。地元の人で組織されているが我々も毎年代表を派遣しています。そこでも、亡くなっている人がいるのです。全国アチコチに派遣されていたのです。

(謝) 全国に400名が派遣されました。亡くなった台湾人は60名です。
派遣された者と工廠にいたひと日本人も合わせて400人が爆撃を受けてなくなりました。

(日比谷) 玉音放送は聴かれましたか?

(李) 聴きました。工廠の本部の前の広場で聞きました。

(日比谷) 日本が負けたということで悲しかったですか?

(李) ええ、涙を流しました。それから我々の管理は海軍省から厚生省に移管されて神奈川県庁に委託された。神奈川県庁から事務官が来て支払いなど対外的なことをやっていた。内部区内については、舎監だけでは間に合わないから、舎監の岩田さんが皆さんで自治会でもつくりなさいといわれた。

(謝) 私は群馬の中島飛行機にいたが名古屋は空襲を受けた。

(小川) 私の親戚も名古屋で空襲受けて近所の人が亡くなっている。

(李) お父さんとはよく本部でしゃべって時間を過ごしたことがあります。時間があったから、我々とおしゃべりして意思の疎通をしたり現場に出ている子供たちの教育について教えてもらった。
時間があればもっと話をしたかったのですが、、、、明日は皆さんどこへ行かれるのですか?

(小川) 故宮、北投、淡水など行くつもりです。

(李) 私は淡水の向かいの八里に住んでいます。
本日は、お忙しいところどうも有難うございました。

(終り)